第16回 有機農業について「批判」

2009年11月05日

世界的に有名な心理学者、B.F.スキナーは、動物の訓練で、良いことをしたときに褒美
をやった場合と、間違った時に罰を与えた場合とを比べると、前者の場合の方がはるかによく物事を覚え、訓練の効果が上がることを実証しました。
また、その後の研究から同じことが人間にも当てはまることが明らかにされています。
批判するだけでは永続的な効果は期待できず、むしろ相手の怒りをかうのがオチということでしょうか。

 私たちの公私にわたる人間関係においても、他人のあら探しは何の役にもたちません。相手はすぐさま防御体制をしいて、なんとか自分を正当化しようと致しますし、それにもまして自尊心を傷つけられた相手は反抗心がムラムラと沸いて、誠に険悪、危険な状態となるのです。

 さて、今週はテレビの取材があり岩手県の牧場へ行って参りました。
地元のテレビ局が2年間に渡ってとり続けている牧場のドキュメンタリー番組に地球人倶楽部も関係者として出てもらえないかとのお話があって行ってきたものです。
  このドキュメンタリーの意図するところを番組のディレクタ一に聞きますと、今から11年前に国家的事業としてスタートした「北上山系開発事業」が大失敗で あったことを世に問うというもので、19世帯の入植者(酪農家)が現在は夢破れて大きな借金を抱え、どうしようもない状況にあること。その現状の中から何 とか自力ではい上がろうとする牧場主に焦点をあてて、北上山系問題と彼の生きざまを映像にしたいというものでした。

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 北上山系開発事業については私もよく知るところではありませんが、失敗であったことは事実のようです。しかしそれは結果論であって、国や県がもともと酪農家を苦しめるために行った事業でないこともまた事実です。
  私は、ひどい目にあった側だけの取材ではなく、計画をした側の当初の夢やロマンも聞くべきではないのか、そうでなければ不公平というものではありません か、そうディレタター氏に申し上げると、氏ももちろん計画した側にも取材を申し込んだけれどことごとく拒否されノーコメントということ。それは、自分たち の失敗を認めていること同じであるとの判断だと言われました。
  もちろん私もマスコミの立場は理解するもので、マイナスの強調こそが番組そのものに迫力を持たせ、効果的であることはわかります。私の言うように、どちら側にも責任はあるんだということでは番組にならないのかもしれません。
しかしながら、私が心配することは、そのような番組に出て語る生産者の将来です。
  彼らの行政への辛辣な批判は、その批判が当たっていればいるほど効果はてきめんです。
それは死ぬまで行政に恨まれるということにおいてなのです。

 以前、知り合いの生産者に紹介されたある人、彼もまた有機農産物の生産者です。
その彼が某テレビ局に出演して、ある農協の秘密を暴露したことがあります。
そのやり方は、隠しマイクを胸につけて農協幹部との話し合いを収録したというものでした。
収録はそのまま全国に放送され、大反響を呼ぶとともに大問題となったのです。
話の論理、内容では生産者の方が正しく分があると思いましたが、人間は感情の動物でもあることを彼は知らなかったようです。相手に対してあまりにも卑劣な その様なやり方は、行政をはじめ、村全体の怒りをかうことになり、彼は徹底的に反撃されることになったのです。
それは、彼の行っている有機栽培における疑問点を大手新聞社に行政が通報するというものでした。そしてその新聞社は、内容をよく調べることもせずにそのま ま掲載したものですから、彼は信用を大きく失い、農業そのものを継続していけないほどの打撃をうけたのです。
  その後、後はその新聞掲載の内容について訴えをおこし、その記事の内容は誤りであったことを判明させました。結果、新聞社は謝罪文を掲載、また担当者は処分ということで一応の決着を見たのです。
  しかしながらこの生産者の受けた打撃は余りにも大きく、いまだに立ち直ることは難しい状況です。彼は間違ったことを言っていたわけではありませんでした。けれど、この顛末の原因のほとんどの部分は生産者にあるように私は思うのです。

 私は彼に会って言いました。
 人を批判したり非難することはどんな馬鹿ものでもできる。そして馬鹿者に限ってそれをしたがるものだと。他人に対する理解や他人がしていることに対する寛容な態度こそがすぐれた品性と克己心をそなえた人にして、初めてもちうる徳なんじゃあないかと。
 安全な食べ物を、環境に正しい農業を、安心な酪農を世の中に広めていくことは正しいことであり私たちの仕事です。しかしながら、そのことを笠にきて、そ れと違う方々を一方的に批判し非難することは相手を頑なものとし、偏見をもたれることになると私は思うのです。
批判することが目的なのではなく、相手に納得させてこそ、はじめて成果があったというものではないでしょうか。
  日本のエコロジー運動というようなものも、世の中に対して対立的、攻撃的なものであればあるほど社会への根付きは遅れてしまうでしょう。
木を1本も切らせないというような極端なエコロジーの考え方は、多くの人々の共感を得ることができないのです。

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  正しいことを正しいものとして評価されるためには、相手に対する理解と寛容ももたなければならないと私は思うのです。
  日本のエコロジー運動が「反○○・・・」というものでもなく、「単なる商売でもなく」、
「心の底からわき上がる気持ちに支えられたもの」として発展してゆくことを願うものです。

  今回の岩手出張は本当に疲れ果ててしまいました。生産者、マスコミ、そして流通を担う地球人倶楽部。それぞれの立場や思惑が交錯して、人間関係のむずかし さをつくづくと感じたのです。この番組は10月に1時間番組として全国に放映される予定と聞いております。いやはやどんなことになるのか、頭の痛いことで す。

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